班田制の施行

62 ~ 64 / 434ページ
 大化改新は、従来の豪族の支配を絶ち、中央集権的統一国家を建設して人民を皇室に直属せしめることにあった。そのため、唐の制度を採用して公地公民となし、班田収授の法を行い、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)の税制を施行して中央および地方の諸制度の確立をはかることにあったが、その基礎をなしたのが戸籍と計帳である。そして、律令政府の財政を支えたのは農民であった。
 戸籍は、班田収授を目的として六年毎に作成された戸を単位とする人口台帳であり、戸主・妻などの家族関係、名、年齢、課・不課などの税負担能力が記載されていた。計帳は庸・調などの賦課のために毎年作成されたもので、戸内の口数、性別、年齢、身体的特徴や課口・不課口などが記されていた。
 最初の戸籍は天智天皇のときに作成された庚午年籍(六七〇年)であるが、これは永久保存であった。六年一造の原則が始まったのは庚寅年籍(六九〇年)からのことであるが、常陸国においては、すでに、七〇一年に戸籍が完成したといわれており、当地方でもこのころ、郡司の監督のもとで戸籍の作成作業がすすめられていたものと考えられる。正倉院文書のなかに、奈良時代の日本の戸籍が、いくつか残されているが、その数少ない戸籍のなかに、下総国倉麻郡意布郷(そうまごおりおぶごう)戸籍というのが残っている。この史料は守谷地方の当時の社会や家族構成などを考えるうえで、きわめて貴重な史料である。
 班田制は律令の定める諸制度のなかで、もっとも農民生活に関係が深いものである。班給(班とは「わかつ」の意)された田は口分田(くぶんでん)とよばれ、六歳以上の良民男子に二段(約二一アール)、女子にはその三分の二にあたる一段一二〇歩、賤民の奴婢(全人口に対する割合は一〇%以内)には良民のそれぞれ三分の一が与えられた。これは、公地の原則にもとづき、農民の最低生活を保障し、あわせて国家財政を維持するための課税対象を確保しようとするものであった。なお、口分田は終身耕作が認められ、本人が死亡すると収公するというものであった。