当時の人びとの生活の場であった住居跡は県内の各地から発見されており、また、守谷町内からも相当量が確認されているので、当時の集落の実態はかなり明確にされている。
それぞれの住居は竪穴式構造の住居で占められているが、その形態を古墳時代のそれと比較した場合、かなり整っており、さらに、出土遺物にしても鉄製農具の普及が著しい。このことは、畑作農業の盛行を物語るとともに、経済力の充実を示すものと受けとめられる。しかし、そこに生活した人びとの身分的な面を推測し得る資料はほとんど見当たらない。従って、集落内における支配的立場にあったとする階級的証左を遺構・遺物などの面からとらえることはほとんど不可能である。