当時の人びとの副食物については、これまでに『万葉集』や「正倉院文書」などから、かなりの品名を知ることができ、現在、発掘調査がすすめられている平城京跡から出土する木簡(もっかん)からもより明らかにされている。それは極めて多種であって、当時の農民がおかれていた生活環境からは入手困難なものもあり、果たして、実際にはどうであったろうかと疑問視する品目もある。ここに、その一例をあげてみた。
野菜=かぶら・あざみ・せり・かさもち・わらび・よめな・じゅんさい・あさで・くず・いたどり・うり・なす
根菜=いも・やまいも・大根・はす
臭菜=ひる・にんにく・ねぎ・あさつき・にら・らっきょう
海藻=わかめ・てんぐさ・かんてん・のり・あおさ・つのまた・ほんだわら・昆布
果物=すもも・桃・梅・びわ・梨・みかん・くるみ・柿・なつめ・あけび・栗・椎・榧(かや)・菱(ひし)
鳥=にわとり・きじ・かも・うずら
獣=猪・鹿・牛・馬・うさぎ・鯨・いるか
魚=かつお・鯛・さめ・いわし・すずき・さば・まぐろ・ふぐ・ぼら・白魚・あゆ・うなぎ・ふな・ます・さけ・いか・たこ・くらげ
貝=あわび・はまぐり・かき・しじみ・さざえ
調味料=塩・ひしお・みそ・なめみそ・酢・あめ・からし・しょうが・さんしょう・みょうが・わさび・こしょう・ごま油・つばき油
なお、当時の食事の回数は一日二度が普通であったが、激しい労働に従事した者などは、その間に間食をとっていたようである。
日常着として用いられていた着衣は、一枚の長方形の布の中央に穴をあけて頭を入れてかぶり、体の前後に垂れた布を紐でしばる、いわゆる、貫頭衣である。
ともあれ、律令の施行に伴い、守谷地方の人びとの生活にも多くの影響があらわれたとみるべきである。田租のほかに人頭税として調・庸、労役として雑徭(ぞうよう)・運脚(うんきゃく)のほか、義倉米(ぎそうまい)の拠出、公出挙・私出挙・仕丁などの各種の負担があり、さらに、兵役の義務も負わされていた。
「青丹よし寧楽の京師……」の歌は平城京の繁栄を示している。その反面、税の負担に苦しむ農民の状態を示す長歌が、山上憶良の「貧窮問答歌」として『万葉集』に収められている。経済的に不安定な生活のうえに、遠慮なく重税がのしかかってくる様子が生々しくうたいあげられている。また、『続日本紀』にも班田農民が困窮して、浮浪・逃亡することが記されている。この浮浪・逃亡は造籍を困難にし、租税収入を減少させるとともに、口分田の荒廃を招くのである。
律令制の完成とあいまって国域は拡大され、国力は豊かとなり、国家の繁栄は著しいものがあったとしても、その繁栄を支えたのは、ほかならぬ律令農民の生産力と労力であり、その労苦ははかり知れないものである。
正丁(せいてい) (二一歳~六〇歳) | 次丁(じてい)(老丁) (六一~六五歳) | 中男(ちゅうなん)(少丁) (一七~二〇歳) | ||||
課(物納税) 役(労働税) | 租(そ) | 口分田一反につき二束(そく)二把(わ)の稲を納める 各郷戸が一戸籍によって総合税額を一括して国衙(こくが)へ納める | 国衙の財用 諸司の常食用 | 田租(でんそ) | ||
庸(よう)(歳役(さいえき)) | 都での労役(歳役)一〇日のかわりに布(麻布)二丈六尺を納入 | 正丁の二分の一 | ― | 中央官庁へ納める。 運脚(うんきゃく)(京へ運ぶ)の負担(食糧自弁)。 庸は京・畿内は免除。調は京・畿内は半減措置がある | 良民男子への人頭税 | |
調(ちょう) | 正規の調―絹・絁(あしぎぬ)(いずれも絹の布)・糸(絹糸)・綿(絹綿)・布(麻布)― 絹・絁なら八尺五寸、糸は八両、綿は一斤、布は二丈六尺、などのうち一種 | 正丁の二分の一 | 正丁の四分の一 | |||
調副物(ちょうのそわつもの) | 紫(むらさき)・紅(くれない)なら三両(一一二・五g) 茜(あかね)なら二斤(七五g)、他に麻・油等 | ― | ― | 京・畿内は全部免除 | ||
雑徭(ぞうよう) | 年間六〇日を限度とする労役 | 正丁の二分の一 | 正丁の四分の一 | 国司が日数を決定 国衙に対する労役 | ||
兵役(へいえき) | 正丁三人に一人(国内の正丁の三分の一を徴兵兵士は諸国軍団に属す(常備軍) 一〇番交代で上番勤務(毎番一〇日) 衛士(えじ)(皇居防備)一年間 防人(さきもり)(九州防備)三年間 食糧(旅費の一部)・武器は自弁 | ― | ― | 大宝令では正丁四人に一人兵士役につく者は庸・雑徭を免除 衛士・防人は租以外の課役を免除される | ||
仕丁(しちょう) | 五〇戸につき正丁二人を三年間徴発 五〇戸で食糧を負担する | ― | ― | 中央が行う造営事業の労働力 | ||
雑税 | 出挙(すいこ)(公出挙) | 春に稲や粟(あわ)を貸付け、秋の収穫高の中から利息つきで回収する。当初の勧農救貧政策から官衙の収入めあての強制出挙に変質。利息は五割(実際は私出挙が拡大) | 戸毎に賦課 | |||
義倉(ぎそう) | 備荒貯蓄策で、親王をのぞく全戸が、貧富財産の段階に応じて粟(あわ)などを供出する |