寺院の建立

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 わが国に公式に仏教が伝えられたのは六世紀の前半のころとみられている。当初は、天皇家や大和朝廷内の有力者において個人的な礼拝が行われていたようであるが、それが、聖徳太子の積極的な大陸文化の導入に伴って仏教が急速に盛んとなり、推古天皇三十二年(六二四)当時、四六の寺、一三八五人の僧尼を数えたと伝えられている。
 その後、律令体制の進展するなかで、仏教は国家的宗教としての地位を確立していくのであるが、とくに、天武天皇十四年(六八五)には、諸国の国府ごとに仏舎を設け、礼拝供養せよとの詔が出されて以来、仏教政策はさらに推進され、持統天皇六年(六九二)には諸国の寺院は五四五寺を数えるに至っている。
 下総国や常陸国に仏教が伝来したのも、七世紀の後半のころとみられている。すでに、下館市女方地内出土の埴輪人物像の額に白毫(びゃくごう)がはりつけられてあったり、また、出島村稲荷山古墳などからも仏具の一種である銅鋺(どうわん)の出土をみている。これらの資料は、いわゆる東国における終末期古墳に伴う遺物であり、地方有力者が仏教文化を受容していたことを物語るものといえる。さらに、仏教伝播に関する史料の乏しいなかで『常陸国風土記』多珂郡飽田村の条に、国宰(くにのかみ)(国司)川原宿禰黒麻呂(かわらのすくねくろまろ)のとき、海辺の石壁に観世音菩薩像を彫造し、仏の浜と名付けたという記載がある。その地は日立市小木津大田尻の海岸で、仏像は同地の観泉寺にある石仏に比定されているが、この石仏も、七世紀後半のころと推定されており、仏教文化の伝播の時期を知る手がかりとなる貴重な記録といえる。
 茨城県内の初現の寺院については、これまでに協和町および千代田村から白鳳期と推定される古瓦の出土例が報じられているが、この時期にさかのぼるとみられる寺院建立の確証はない。従って、律令体制の動揺を防ぐとともに、社会不安の一掃を図るため、仏教による鎮護国家を念じた聖武天皇が、天平十三年(七四一)に国分寺建立の詔を諸国に発したことによる国分僧寺・尼寺の建立をもって、この地方における本格的な寺院建立の草創とみることができよう。
 国分僧寺は金光四天王護国の寺、尼寺は法華滅罪の寺と名付けられ、常陸国は現在の石岡市内に、下総国は現在の市川市内にそれぞれ建立されたのである。国分寺は国庁(国衙)の近くに位置し、その寺域も大きく、僧寺は方二町(約二二〇メートル)、尼寺は方一町半(約一六五メートル)ともいわれ、その中に堂塔伽藍が配置されていた。

常陸国分尼寺跡伽藍配置図(『石岡市史』)


下総国分尼寺跡(金堂跡)

 勅命により国分寺・尼寺が全国に建立されたように、地域によっては郡寺としての性格を有する寺院の建立もみられたようである。これを茨城県内でとらえてみると、新治郡の新治廃寺跡(協和町)、那珂郡の台渡廃寺跡(水戸市)、河内郡の九重廃寺跡(桜村)、筑波郡の中台廃寺跡(筑波町)、結城郡の結城廃寺跡(結城市)などは、いずれも郡衙跡の近くに建立された寺院であり、郡名などを記した出土品などがあることから、郡寺として地方住民に対する教化伝導のための文化センター的な役割を果たした寺院とみることができよう。このほか県内には、奈良・平安時代に建立されたとみられる寺院跡がいくつか確認されている。つまり、これらの寺院跡は、在地の有力者が、古墳造営にかわる新たな権力誇示の手段として、許容される政治力や経済力などで建立を図った氏寺的性格の寺院と推測することが可能である。