荘園制の崩壊

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 守谷の地もかつては平氏一族の領有する荘園であった。その荘園制はやがて崩壊することになるが、そのいきさつについて簡単に述べたい。
 大化改新によって律令政治が発足したが、この政治形態はそれから数十年たたないうちに、その経済組織である土地公有制から次第に動揺を始めた。当時の人々はその土地を政府から班給されて耕作していた。人口が増加すると班田(はんでん)は減少し、その他、人々は重税に苦しみ、加えるに政府は徭役(ようえき)という長期の労役を人々に課したので、家郷を離れて流浪をする人や、口分田(くぶんでん)を捨てて逃亡するものが増加した。このことは、国家財政に危機をもたらすことになるから、政府は土地の開墾を奨励するために、「三世一身の法」を定めたが、その効果は充分でなく、続いて「墾田永世私財法」を定めて、遂に開墾地の永久私有を許してしまった。ところが、中央や地方の有力者や大社寺は、それらの流浪の人々を集めて、争って土地の開墾にのりだし、大土地私有の動きが激しくなって、ここに私有地、即ち荘園が発生するのである。