かくして、公地公民という律令政治の原則は、次第に崩れていった。八世紀末、桓武天皇は律令制度の再編成をこころざして、平安京に遷都したが、その効果はあがらなかった。
また、中央の貴族や社寺は、その地位を利用して、それぞれ所有する荘園の不輸(ふゆ)の特権をもつようになった。不輸の特権というのは、荘園内における租税を納めなくてもよいという特権である。そしてこれは、十世紀より十一世紀にかけて、急速に全国にひろがっていった。ここに、在地の領主等は国司の荘園に対する圧迫や徴税に苦しんでいたので、中央の貴族や社寺に、土地の収益の一部を寄進して、その保護をうけて不輸租の特権を得るようになった。守谷地方の荘園も、相馬氏がこれを伊勢神宮に寄進して、その保護をうけることになったが、このことについては後述したい。