常総の地は、その当時は未開地が多く、馬牧に使用された場所もあって、そのことは、『延喜式(えんぎしき)』にも記載されている。住民は乗馬の術が巧みで、騎馬戦に勝れ、また、蝦夷地に近いことなどから武術を練る機会も多く、これが承平の乱に出てくる騎馬隊の基礎となったものであろう。
また、鬼怒川、小貝川、飯沼、菅生沼、長井戸沼などから砂鉄が産出することから、製鉄跡も各地に残されている。守谷町の大木付近からも、鉄縡(てっさい)が発見されることから、ここでも製鉄が営まれたものと考えられる。武器、武具等の製作が基盤となって、東国武士の成立、発展をうながしたものであろう。
平氏一族は、これらの土地を開拓し、私営田領主として、次第にその勢力を拡大していった。平氏一族の均衡は、やがて、将門とその叔(伯)父等との遺領問題や、女論等がもとで、次第に破れて激しい争いと化していった。そしてこの争乱は、やがて将門の国家に対する反抗となって現われ、その結果として、律令体制を根本からゆさぶることになった。中央政府は地方武士を押える力を失い、武家の力に頼らざるを得なくなっていった。とにかく、将門の争乱は、わが国が武家社会へと変動していく、一大要因をつくったものであった。