相馬郡

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 今回述べられている中世史の舞台となる相馬郡というのは、相馬御厨(そうまみくりや)の項で説明することにするが、ここにその範囲を検討してみると、現在の水海道市の一部、旧菅生、旧坂手、旧内守谷、筑波郡谷和原村の一部に当る旧小絹、北相馬郡守谷町の全部、取手市の全部、藤代町の全部、利根町の大部分、それに千葉県我孫子市、柏市、沼南町の全部、更に流山市の一部にわたる、広汎な、そして割合いに細長い地を指している。註(2)
 また、相馬の地名のおこりについては、『下総旧事考に』
  相馬の名義は狭沼(さぬま)であろうか。この地は、鬼怒川の下流に当り、そして、これが小貝川に合流しており、現在の利根川とは河瀬を異にしている。その両河川に狭まれて、その間に沼沢があったりして、大変に細長く狭い地であるから、そのような意味で、名付けられたものであろうか。
 と述べてある。これによると、相馬の名は、二つの川にはさまれた、細長い狭い地を指したものだ、ということになっている。相馬の地名については、その他に、「この地には牧場が多かったので、馬に関することから名付けられた」という話もある。
 なお、ここで常総地方と一般に呼ばれているのは、常陸、上総、下総地方を指すもので、平氏一族はそれらの大部分の地域を領有していた。ことに、将門の根拠地は筑波郡全域にわたり、その他に猿島郡、結城郡の一部にも及んでいた。
 守谷の地が、将門の拠点にあたっていたかについては、現在、種々の論議もあるようであるが、その勢力範囲になっていたことについては異論はないのである。なお、このことは後述したい。
 守谷を中心とした相馬地方は、その後、将門の叔父にあたる、平良文の子孫が、代々相馬氏を称して、室町時代後期に至るまで、その拠点として繁栄したところであった。