将門の生いたち

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 常総の地の大半は、将門の父に当る良持の荘園であったといわれる。したがって、その拠点にあたっていた石下、石井、守谷の各地は、当然、将門が後を継ぐことになる。
 将門の生地は、現在の取手市寺田にある、惣代八幡宮(そうだいはちまんぐう)の付近であったという伝承が残されている。母は下総の防人(さきもり)の歌を撰んだ、県犬養宿称浄人(あがたいぬがいのすくねきよんど)の裔、春枝であったといわれている。これに関する資料などは残されていないが、この惣代八幡宮は、守谷の相馬氏が、守谷の飛地となして、相馬氏の氏神として崇敬したことなどからみて、その事情が理解されるのである。

惣代八幡宮(取手市)

 将門は若くして父を失い、京都にのぼって猿島地方の荘園の本家に当る摂関藤原忠平に仕え、在京十年承平元年(九三一)に帰省している。そして伯父国香に預けておいた荘園の返還を求めたが、一向に返してくれない。また、叔父良兼とは女論の問題で不和になり、初めは武力に訴えなかったが、遂に立ち上って、一族同志の乱闘となった。これらのいきさつについては、『将門記』に述べてあるから、ここでは、その概略だけを記したい。