天慶二年(九三九)、将門は常陸国府に一〇〇〇の兵を進め、国府軍三〇〇〇と合戦し、遂に国府をおとし、国印と鍵を押収した。続いて坂東諸国の国府を制圧して、公然と政府に背き、自ら新皇と称して石井を都とし、坂東諸国の国司には、弟やその部下を配置して独立国を築こうとした。
この報をうけて、朝廷では社寺に逆賊調伏を祈り、朝敵将門を降すため、藤原忠文を東下させたが、征討軍の到着以前に、国香の子貞盛と、藤原秀郷の軍に攻められ、遂に将門は敗死した。秀郷は、下野国解文を添えて、天慶三年四月将門の首を京都に届けた。以上が承平の乱の概要である。
将門の活動範囲
将門の乱は初めは一族同士の乱闘であったが、やがてそれは政府に対する反抗となってあらわれた。それは中央政府に結びついた国府の高官に対する反抗であり、律令政治への反発であった。この事件によって、律令体制は次第に崩壊のきざしをみせ、新興武士団の成長、発展を導いたものであった。