将門と合戦

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 将門の拠点は、豊田と幸島(猿島)の地であり、争乱がいよいよ本格的となるのは承平五年(九三五)あたりからで、それは先ず、源護(みなもとのまもる)との争いから始まった。源護は、その親族にあたる国香、良兼、良正等と連合して、将門にあたったが、将門は護の子をそれぞれ倒し、石田にある国香宅を攻めて国香を戦傷死させてしまった。良正は、承平五年将門を攻めたが失敗した。一方、護は将門を朝廷に告発したが、将門は無罪にとりはかられ、かえって武名をあげている。この紛争は、やがて東国武士と、在地豪族との争いに発展し、将門は、武蔵の権守(ごんのかみ)興世王や、国司と対立した常陸の豪族、藤原玄明等を庇護して戦った。
 天慶二年(九三九)、将門は常陸国府に一〇〇〇の兵を進め、国府軍三〇〇〇と合戦し、遂に国府をおとし、国印と鍵を押収した。続いて坂東諸国の国府を制圧して、公然と政府に背き、自ら新皇と称して石井を都とし、坂東諸国の国司には、弟やその部下を配置して独立国を築こうとした。
 この報をうけて、朝廷では社寺に逆賊調伏を祈り、朝敵将門を降すため、藤原忠文を東下させたが、征討軍の到着以前に、国香の子貞盛と、藤原秀郷の軍に攻められ、遂に将門は敗死した。秀郷は、下野国解文を添えて、天慶三年四月将門の首を京都に届けた。以上が承平の乱の概要である。

将門の活動範囲

 将門の乱は初めは一族同士の乱闘であったが、やがてそれは政府に対する反抗となってあらわれた。それは中央政府に結びついた国府の高官に対する反抗であり、律令政治への反発であった。この事件によって、律令体制は次第に崩壊のきざしをみせ、新興武士団の成長、発展を導いたものであった。