守谷と将門

87 ~ 88 / 434ページ
 将門の拠点として、守谷の地が選ばれたと一般にいわれ、また、守谷城は将門が築造したという説もある。このことについては、諸本に述べられてはいるか、それらは何れも守谷とは明記してなくて、下総国相馬郡とだけ記してあるのである。
 そのことを一番古く書いたのが、『神皇正統録』という書物、次に鎌倉時代初期に書かれた軍記物語の『保元、平治の両物語』、そして南北朝時代に、北畠親房が小田城で著したといわれる、『神皇正統記』、いまひとつ、『神明鏡』という書物にも、下総国相馬郡に本拠を置いたと書いてある。
 また、将門の本拠地が守谷城であったという伝承もあるが、しかしながら、守谷城の築城上限は、鎌倉時代の様式と推定され、相馬師常が構築したものではないかといわれているのである。
 各般の状況から判断して、守谷の地が将門の軍事及び政治上の拠点にあてられたものではなさそうである。しかしながら、守谷と将門との関係はあった。それは将門が守谷を信仰の地と定め、妙見八幡をこの地に召請して、自ら常に崇拝していたことである。この他に、将門は守谷の地に多くの社寺を創建したのであった。
 更にまた、将門はこの地を交通上の拠点と定め、石井の地に偽宮を建てたとしたならば、交易上の基地としたものではないかと推定される節もあるが、そのことについては、何れ後節で述べたい。