稲豊橋から市の台を望む
中世になって守谷城が築造されたが、小貝川の水は入江となって城を包み、そこには常に満々たる水がたたえられていた。この城の三の郭に当るところに、現在、舟着場の名称が残されているが、ここまで舟便が開けていたものであろう。
更に、この守谷の地には、律令政治の軍事組織である、北下総地方の軍団か置かれていたという伝承が残されている。しかしながら、葛飾軍団にあまりにも近いので、石井の地に移動した。このようなことから石井の地は、軍事拠点として繁栄をみたようで、現に石井郷内弓田の地に、兵会所跡が残されており、通勤不可能者に対しては、宿舎もあったようで、宿畑という地名も残っている。また、馬立馬場、即ち練兵場もあった。註(3)なお、この地は蝦夷地の前衛基地として、弘仁の制度改革で、健児制(こんでいせい)に変わっても軍団として残された。だから将門が石井の地を政治、軍事上の一大拠点としたのも、当然のことと考えざるを得ない。
奈良時代には、守谷付近から蝦夷地に守備兵として派遣されたようで、この地から出征した大伴部の子羊という人が作った、
大君の命かしこみ、ゆみのみに
さねかわたらむ、ながけこの世を
という歌が、『万葉集』に記されている。