平安中期の守谷の地形

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 守谷の地は、太平洋から霞ケ浦を経由して往来する、海上交通の拠点を占めている。したがって、この地は政治、軍事上の基地として繁栄を極めたところである。このような意味で、この地には相馬郡の郡衙(郡役所)が置かれていたという説もある。また、この地の小貝川の流域に市の台(いちのだい)という地名があるが、ここには市場が開設され、商業都市として繁栄した。なお、市の台には、縄文時代の頃は太平洋の波が打ち寄せていたようで、貝塚も残されている。平安時代になっても、小貝川の水量は豊かで、外海との交流が開けており、市の台はまだ繁栄を極めていたようである。

稲豊橋から市の台を望む

 中世になって守谷城が築造されたが、小貝川の水は入江となって城を包み、そこには常に満々たる水がたたえられていた。この城の三の郭に当るところに、現在、舟着場の名称が残されているが、ここまで舟便が開けていたものであろう。
 更に、この守谷の地には、律令政治の軍事組織である、北下総地方の軍団か置かれていたという伝承が残されている。しかしながら、葛飾軍団にあまりにも近いので、石井の地に移動した。このようなことから石井の地は、軍事拠点として繁栄をみたようで、現に石井郷内弓田の地に、兵会所跡が残されており、通勤不可能者に対しては、宿舎もあったようで、宿畑という地名も残っている。また、馬立馬場、即ち練兵場もあった。註(3)なお、この地は蝦夷地の前衛基地として、弘仁の制度改革で、健児制(こんでいせい)に変わっても軍団として残された。だから将門が石井の地を政治、軍事上の一大拠点としたのも、当然のことと考えざるを得ない。
 奈良時代には、守谷付近から蝦夷地に守備兵として派遣されたようで、この地から出征した大伴部の子羊という人が作った、
  大君の命かしこみ、ゆみのみに
  さねかわたらむ、ながけこの世を
 という歌が、『万葉集』に記されている。