守谷の地名

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 守谷の地名のおこりについてみると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のとき、この地を通り、うっそうたる森林が、果てしなく広がっているのを見て、嘆賞せられ「森なる哉(かな)」といわれた。これを漢訳して音読すれば、「森哉(もりや)」である。守谷の地名はこれに由来するという説と、また、平将門がこの地に城を築いたとき、丘高く谷深くして守るに易き地ということから、守るに易き谷、転じて「守谷」となったという説がある。註(4)しかしながら、このことについて、はっきりしたことは判明しないが、その頃の守谷は森がうつそうと茂り、その両側には入江が深く入りこんで、早くから人々が集まった所であった。これについて、縄文時代海進期の頃をみると、守谷台地の両側には太平洋の波が打寄せ、そしてそれは水海道の奥深く、更に、現在の利根水系の方は、古河あたりまで海水の流入をみたようである。この頃からすでに生活がなされていたことは、原始時代の章で述べてあるように、現在も残存する数多くの貝塚や遺跡によって理解されるのである。
 長い年月が経過して海は次第に後退していったが、それでも平安時代の中頃には、竜ケ崎付近まで海水が流入していたと推定される。鬼怒川は寺畑より伊奈橋にかけて小貝川に注いでおり、大河となって榎浦(えのうら)流海に流れ込んでいた。