『将門記』によると、天慶二年(九三九)将門は、新皇を宣言すると、京都の政治機構にならって左大臣、右大臣、納言(なごん)、参議等の制をたて、また、関東地方に新国司を任命した。それと同時に、王城の建設計画をたてたのである。ところが、その王城建設計画中、その翌年二月、将門は平貞盛、藤原秀郷の軍勢に敗れた。天罰がくだり、神鏑矢(かぶらや)が、将門の頭を射抜いたと、『将門記』には書いてある。一族郎党はすべて捕われ、或いは殺されてあえない最後を遂げたのである。
王城が建たないうちに将門は敗死したのであるが、果たして彼は何処に王城の建設計画を建てたのであろうか。このことについて『将門記』には、わずかにただの一か所だけ記載してある。そこで、そのことを述べる前に『将門記』についてそのあらましを紹介してみたい。