それでは、『将門記』によって、将門が王城を建設しようとした場所についての記述を見ると、
王城を下総国の亭南に建つべし。兼ねて〓橋を以て号して京の山崎となし、相馬郡大井の津を以て、京の津となさむ。
と述べてあるが、わずかこれだけの記事なのである。そこで、この文章を三つに分けて、検討してみたい。
その第一は、「王城を下総国亭南(ていなん)に建設したい」というのであるが、これを亭南と見ないで、下総国亭(こくちょう)(庁)の南の方という意味に解釈したらどうであろうか。いうまでもなく、将門にとっては、下総国庁は石井の地であったから、その地の南方、即ち、広川のほとりの広山に建てたいというのである。
若い時、将門はこころざしをたてて京に上り、摂関藤原忠平に仕え、皇居の滝口の衛士(えじ)となったが、こころざし半ばにして帰郷した。彼はひそかに心の中に、京都の王城の構図をえがいていたことであろうし、その王城を国庁の南方、広山に建てる計画をしていた。しかしながら、その計画半ばにして、世を去ったのである。
その第二として、「兼ねて〓橋を以て、号して京の山崎となし」という文章であるが、〓橋というのは浮橋のことで、船舶を並べて、その船の上に板を渡した橋のことである。そこで、王城を国庁の南の島、広山に建てるとき、それを兼ね合せて、〓橋を掛けるのであるが、それは、京都の山崎に似た位置の大崎村の高崎に掛けたいという意味ではなかろうか。
その第三に、「相馬郡大井の津をもって、京の津となさむ」という京の津とは、京都の近くにある大津市を指すもので、昔、大津京のあった場所であろう。相馬郡大井の津を、大津京になぞらえたものであるが、そこを、わざわざ相馬郡という地名を入れたのは、大井の津は、相馬郡の大井郷(現在の野木崎付近)を指していることを強調したのではなかろうか。
津というのは、港のことを意味する言葉で、ここはその当時、広川に望む舟運の要路にあたり、将門は王城に往来する水上交通の拠点を、大井の津に求めたものではあるまいか。
これらによって、将門の王城計画の一端を知ることが出来るのであるが、彼は王城を石井の地に造営して、守谷付近を水上交通の拠点と定めたものと、推察されるのである。