将門は優れた武将であったが、計画的に人をおとし入れたりするような人ではなかった。しかしながらその結果は悲運なことになってしまった。その強かったこと、奸詐(かんさ)のなかったこと、その最後が悲惨であったこと、それらが後世において世の同情を集めた原因であろう。怨を呑んで死んだということが、一般の人々に大変に恐れをいだかせ、その霊を慰めなければ崇られるという恐怖感と、また一方、彼を尊敬する人々によって、その霊を各所に祀られるようになった。そして、これらのことは付加され、真偽混同して世にひろがり、東国はいうに及ばず、遠くの地方に至るまで、数多くの将門関係の祠や、遺跡がつくられるようになった。
守谷における将門伝説と、それに伴う祠や遺跡を見ると、その数は極めて抜群で、かつて将門が居住し、また、最後を遂げたといわれる石井の地よりも、その数ははるかに多いのである。そのことが、将門が守谷の地に居住していたといわれるようになり、また、王城もここに建られたと信じられるようになったのである。これらをよく検討してみると、その中には伝説の域を脱しないものがあり、また、書き残された文書等も、極めて少ない。更に、碑や遺跡の中には、江戸時代になって新たにつくられたものもあった。しかしながら、これらの中には史実と判定されるものも数多くあると推定されるから、今後の課題として研究と検討とを重ねていかねばならない。
次に、その遺跡、碑、伝承等について、その概略をあげてみたい。