千葉氏系図では忠経となっているが、良文の孫に当る人である。祖父良文のぼう大な荘園を受け継いで、下総国相馬郡を伝領して、相馬の地に実力を貯えたもので、代々の子孫に至るまで、その地を領有していたことが、伊勢神宮の『櫟木文書(いちのきもんじょ)』に記されている。千葉氏系図によると、忠常は下総権介(しもふさごんのすけ)、上総介(かずさのすけ)となっており、国司の経験もあり、二国にかけて強大な勢力をもっていたもののようである。忠常の居所は相馬の地であったものと思われるが、果たして何処にあるかについては、はっきりとわかっていない。
その頃の国司は、やたらに実力を乱用して、国司の命令を聞かない農民等を圧迫していた。そのため農民や中小領主は、忠常にその保護を求めてくる。忠常もまた大領主たるの地位を保つため、それらを従えて、国司に対抗したのである。長元元年(一〇二八)朝廷では追討使を派遣して忠常を討たせた。世にこれを平忠常の乱というが、それは将門の乱から、およそ一世紀余りを経過した頃で、房総においては再び大きな反乱がおこされたものであった。
反乱はなかなか鎮定されず、追討使は解任されたが、それに変って常陸守源頼信が任ぜられた。頼信と主従の関係にあったといわれる忠常は直ちに降服した。註(3)忠常はその後在地豪族として、上総・下総地方を領治することを許され、源氏の下で大武士団を形成することになるのである。