常晴と常重

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 常兼には六人の子供がいたが、それらはそれぞれ上、下総の地を分割領治させ、そして、長男の常重は下総国千葉郡に居住させた。常兼の弟常晴(常時)は『千葉系図』によれば、相馬郡を領し、この時から相馬氏を称したとある。そしてその後、常兼の長男常重を、常時の養子として、相馬郡を領治させ相馬氏を継せたという。
 なお、相馬郡を常重が常晴(常時)から、譲りうけたときの様子を、『櫟木文書』(久安二年八月十日)平常胤寄進状によると、
  この相馬郡はもとは、平良文朝臣の所領であって、経明(忠頼)、忠経(忠常)、経政(常将)、経長(常永)、経兼(常兼)と相伝してきたのであるが、常兼のとき嫡子常重に譲らず、弟の常時に伝え、国役不輸の地となし、そのあと、大治元年六月、常重は養子となって、これを譲りうけた。
 とあるが、常重は常時の養子となって、相馬郡を譲渡されたもので、常重は郡務を知行せよという国判を賜わり、相馬郡司に任命されている。そして、大治五年六月(一一三〇)に相馬郡を伊勢神宮に寄進して、国役不輸の特権を得たが、このことについては第三章で述べたい。この時から常重の居所は、相馬郡内にあったが、守谷にあったという確証はない。