在地の荘園領主等は、国司の私有地に対する圧迫や、徴税に苦しんでいたので、中央の貴族や社寺に、土地の収益の一部を寄進してその保護を受け、不輸租の特権を得たのである。それを寄進地系荘園といっているが、このことは、前章で述べたとおりである。十一世紀になると、そのような荘園が急速に増加した。相馬常重も、それにならって、大治五年六月(一一三〇)自領の相馬郡を伊勢の皇太神宮に寄進したのであるが、これを世に相馬御厨(そうまみくりや)と呼んでいる。御厨というのは、古代、中世を通じて存在した神社の所領をいうもので、相馬御厨というのは、相馬郡内にある皇太神宮所領という意味である。実質的にはその土地の収益の一部を寄進して、伊勢の皇太神宮の保護を受けたのであり、そうすることによって不輸租の特権を得て、国衙権力の介入を阻止したのである。
大治五年(一一三〇)から、室町中期頃まで、相馬御厨は一応の存在をみたものである。世の乱れと共に自然消滅の形をとったようであるが、その間、御厨では種々の消長があった。ここでは主に相馬御厨の範囲とか、また皇太神宮に寄進するについての条件、その他代々の相馬氏がその荘園を管理した経緯(いきさつ)等について述べてみたい。ただし、この荘園は平安末期より鎌倉時代、室町時代中期頃までその機能をまがりなりにも発揮していたので、後章で述べるそれ等の時代の記述と重複することがあることを付記しておく。
中世荘園図(北下総地方史より)