寄進状案とその範囲

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 『櫟木文書』によって、その寄進状案をみると、皇太神宮に寄進した相馬御厨の範囲が書いてある。それによると 註(4)「正六位上行、下総権介朝臣経繁(常重)、相馬郡を伊勢の皇太神宮に寄進すること」とあって、その次に四至、即ち領域が述べてある。
 これをみると、東は蛟虻とあるが、これは北相馬郡文間村で、現在の利根町文間をいうもので、東の領域は文間の地がその境界であった。西は廻谷、東大路とあるのは、千葉県の野田市目吹付近をいうものであろう。南は志子田谷、手下水海とあるのは、千葉県柏市篠籠田付近から、手賀沼を指したもので、北は小阿高及び衣河とあるのは、筑波郡伊奈村足高(あだか)付近及び小貝川を指したもののようである。これは、現在の北相馬郡、取手市のほぼ全域に当り、竜ケ崎市、水海道市、岩井市、筑波郡の一部、それに利根南岸の我孫子、柏、野田市等の一部を含む、大変に広大な領域で、その頃の相馬郡の広さがわかる。守谷の地もこの中に含まれるのであるが、守谷が相馬御厨の行政上の中心地であったことの記録は残されていない。

相馬御厨の布川の栄橋から利根川を望む(利根町)

 四至の次に「右の地は経繁(常重)が代々祖先から受継いだ私地であり、その領地の司としてのたちふるまいについては、他からの干渉は一切許されない」と述べてある。

相馬御厨の四至