櫟木文書と寄進状案

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 『櫟木文書』によって寄進状案をみると、相馬御厨を寄進した条件が細かく書き記してある。その概要についてみると、
 その一、御厨の領主である経繁(常重)は、これを伊勢皇太神宮に寄進する。これについては、毎年の年貢として、田一段につき米一斗五升、畠一段について米五升の他に、雉百羽、塩曳鮭百尺(尾)を納入する。
 その二、年貢は二分して、半分は神宮の祭料として、当時の弥宜荒木田元親(ねぎあらきだもとちか)と、その子孫に至るまで納める。その他は寄進地の媒介役を務めてくれた、荒木田延命を口入(くちいれ)神主として、その人に納入する。
 その三、「御厨の預所(あずかりどころ)は、在地の口入人である源友定(みなもとともさだ)がこれを行い、その子孫にこれを継承させる」とあるから、源友定が在地にあって、神宮側の事務をとったものであろう。
 その四、「御厨の下司職及び、田畠の加地子をとる権利は、経繁(常重)に留保し、その子孫が相伝する」と述べてあるが、実際の御厨の所有者は常重であって、それを神宮に寄進した形をとって、右に述べたような年貢を納入すればよいのである。
 寄進条件は大体このようなものであるが、最後に「大治五年六月十一日、正六位上行、下総権介平朝臣経繁(しもふさごんのすけたいらのあそんつねしげ)(常重)」となって、寄進状は終わっている。
 このことは、大治五年十二月(一一三〇)の下総国庁宣にも「相馬郡経繁相伝之私地なり。神威をこうむりて是をなす」とあって、国衙権力の立入を拒否することが承認されている。このようにして経繁(常重)は下司職として、所領の支配権を確認したのである。

相馬御厨の中の蛟虻神社(利根町)