それから五年が経過した保延元年(一一三五)、相馬御厨は、常重からその子常胤へと伝領された。ところが、翌年の七月、下総国司藤原親通は御厨内に存在する公田に課せられた税の滞納を理由に、常重を捕縛し、その数日後、準白布七百反余を未納分として付課してきた。そして、同年十一月、国庁の目代紀季経(もくだいきのすえつね)に命じて、相馬、立花(布佐郷か)の両郷を、国司親通に進上するという、内容の新券を作り、常重、常胤父子の署名を責め取って、その地を押領したのである。これにつけこんで、源義朝は逆にこの地の領主権を奪ってしまった。
義朝は国司親通による御厨奪取の動きと、常重の従兄弟にあたる常澄一族の領有争いを口実として、御厨の領主権を奪い、久安元年(一一四五)になって、義朝は神威を恐れてこの地を伊勢の皇太神宮に寄進している。
これに対して常胤は、まだ納入しなかった租税、上品八丈絹三〇疋、下品七〇疋、縫衣一二領、砂金三二両、藍摺(あいずり)上品三〇反、中品五〇反、上馬二疋、鞍置駄三〇疋を、国庫に納入した。そこで、国衙では、常胤を久安二年(一一四六)相馬郡司に任命し、郡務を司らせた。八月になって常胤は、相馬郡を再び皇太神宮の御厨として寄進したので、義朝、常胤の両者によって、二重に寄進されたことになる。
さて、常胤は在地の領主を統合して、保元・平治の乱には源義朝に従っているが、乱後の永暦元年(一一六〇)に、相馬御厨が義朝の私領であるとして、国衙に没収されるという事件がおこっている。これに対して常胤は、早速証文を提出して、自分の所領であることを主張したので、相馬郡は皇太神宮領であることが明らかになり、常胤のもとに戻された。