義胤と領地分配

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 御厨はその後、師常から義胤に伝領された。相馬氏は鎌倉幕府の重臣として、その頃が最も繁栄したものであろう。義胤の代になると御厨のほかに、奥州には二地域を領治していたのであるが、それは後の章で述べることにしたい。
 安貞元年(一二二七)に義胤の娘、土用(とよ)御前は義胤から、御厨の「のけざき」、現在の守谷町野木崎等の所領を、譲渡されている。註(5)その後、土用御前はその土地を幕府から認知されて、領地をもったまま新田氏の庶子、岩松時兼に嫁している。土用御前の死後、それは子供の経兼に伝えられ、さらに、その子の政経が相続したようである。註(6)

野木崎の地

 その後、相馬氏は
 義胤―胤綱―胤継―胤村
 とこれを継承し、所領の大部分は惣領の手にあったものと考えられる。
 なお、胤綱の三人娘にも横須賀村(利根町横須賀)、戸頭村(取手市戸頭)、符川村(利根町布川)、押手村(利根町押手)が分与された。