目次
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第三編 中世の守谷地方
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第三章 相馬御厨について
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第五節 相馬御厨と義胤
胤村分配の領地
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永仁二年(一二九四)に、胤村が九子に配分した領地は、合せて約三百町歩、貢は三百拾貫文と、鎌倉へ注進した。註(7)しかし、相馬郡六六か村の一族領は三八〇〇町歩である。応永元年(一三九四)の二月、御厨の雑掌(ざっしょう)徳弘の申状によれば、三位頼圓なるものが郷の地頭等をかたらい、神物を掠(かす)め取っている。世が乱れて来ているので、御厨も自然と無視されたようである。応永三十二年(一四二五)には、鎌倉の寿福寺に御厨のうち五か村が与えられている。