年貢と生産物

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 農民には領主、名主への夫役や課税等があった。特に常総地方は関東ロームの痩地が散在しており、そのような関係で牧場も多かったものと推察できる。農業生産の主なるものは米作であった。守谷の地はその地名の発生説のように、森林は多かったが、両翼に大きな河川を持ち、その流域には河川の氾濫によって生ずる肥沃な沖積平野があって、農業生産そのものは割合に多かったようである。
 また、この地は水産物が豊かであったことは、御厨の貢納物の真先に「鮭百疋(ひき)」とあるから、当時は鮭の漁獲が多く、これが貢納の重要品であったものであろう。その他に鯉、鮒等も数多く獲られた。
 なおここに常胤が国庫に納入した品物をみると、第一に、上品八丈絹三十疋、下品七十疋」と書いてあるのをみると、守谷付近は絹の生産地として知られていたことがわかる。第二として「藍摺上品三十反、中品三十反」となっている。藍は染物の原料として使用されるもので、その生産地は藺沼あたりであったものか、その記録がみつからない。

当時の藺沼の周辺

 第三に、「上馬二匹、鞍置駄三十疋」とある。常総の地は牧場として軍馬や役馬が盛んに生産されたことは前述したとおりである。したがって、これも租税の重要品としてあげられるのである。その他、「砂金三十二両」となっているが、砂金も生産されていたものであろう。また、小貝川や鬼怒川の砂に含まれる砂鉄を採って、鉄が生産され、守谷の大木地方あたりで製鉄されていたようである。これらは武器となって、良馬の生産と相まって、強力な常総軍団を形成したものと想像される。
 平安時代の貢納は、銭貨より現物貨幣の方が多かったが、鎌倉時代になると銭貨の利用が増加したようである。
  註(1) 続群書類従一四五。右側に小さく入れてある名前は師国で終り、それ以下は略となっている。
   (2) 中世相馬の基礎的研究 岡田清一著
   (3) 今昔物語 巻二五の九(以上第二章)
   (4) 櫟木文書 下総権介経繁私領寄進状案
   (5) 新田岩松文書 平能胤譲状案
   (6) 新田岩松文書 道覚岩松経兼譲状写
   (7) 北下総地方史 今井隆助著(以上第三章)
   (8) 相馬御厨については、次の章の鎌倉時代と重複することが多いのであるが、ここでは相馬地方の荘園内での出来ごととして、特に別章を設けて述べてみたものである。