源頼朝の最初の旗上げは、治承四年(一一八〇)の石橋山の戦であるが、この戦は頼朝の敗戦に終わった。頼朝は一度安房国に逃れたが、その後、上総国の千葉広常を頼って行くことになる。千葉広常は上総国を領し、相馬常胤の系統は下総国を治め、いずれも常長を祖とする平氏の系統である。この千葉氏は広常の代になると、相馬御厨の権利を主張するなどして、常胤とは余り仲がよくなかったが、いずれも源氏に対しては、これを宗家と仰いで仕えたものであった。
源頼朝が最初に頼ったのは、上総の広常の方であったが、広常は積極的に頼朝に従わなかったようである。それに対して下総の常胤の方は、誠意をもって頼朝に仕えたので、頼朝は先ず常胤を頼った。常胤は千葉六党と称する自分の子等を率いて頼朝のもとに参じた。この中には次男で相馬郡を伝領した師常もいたが、師常は相馬の党を従えて頼朝に従軍したのである。一方千葉広常は、それからややしばらくして、頼朝の陣に参じている。
頼朝の挙兵にあたり、常胤はその手下となって働き、富士川の合戦にも参加して功をたてた。註(1)平氏を追って頼朝は西上しようとしたが、常胤はこれをとめ、内部を固めるため、頼朝に反した常陸国佐竹義宗を討伐するように進言して、治承四年十一月これを敢行させたのである。常胤が頼朝に佐竹討伐を進言したことについては、義宗によって奪取されている御厨の地を、取り返す意図が充分にあったことを察知する必要があろう。
頼朝の佐竹討伐によって、必然的に常胤は御厨を自分の手に取り返し、師常をしてこれを治め守らせた。