吾妻鏡にある常胤と師常

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 師常は常胤の二子で、相馬郡を伝領し、守谷の地に居城を構えたことは、前節において述べたとおりである。ここでは、常胤と師常が、頼朝の軍に従って、軍功をたてる一節が、『吾妻鏡』に記載してあるので、その様相をみると
  治承四年九月十七日
  千葉広常が参上する前に、常胤子供を連れて下総国府におもむき、頼朝に参見している。それは、長男太郎胤正、次郎師常(相馬を名乗る)。三郎胤成(武石にある)。四郎胤信(大須賀にある)。五郎胤通(国分にある)。六郎太夫胤頼(東にある)。そして、常胤の孫小太郎成胤等であった。
 とある。それ以来、師常は父常胤と共に頼朝に仕え、数々の勲功があった。寿永三年(一一八四)二月平家追討の陣には、師常は常胤と共に、範頼の軍に加わっているが、その時の様子を、
  大手大将軍は蒲冠者範頼である。相従う輩は、小山四郎朝政(中略)、千葉介常胤(中略)、相馬次郎師常(略)。
とある。一の谷の戦、壇の浦の戦について、範頼が頼朝に復命した言葉に、「常胤老骨であるが、立派な手がらを度々たてている」とあるが、それは師常などの奮戦のなみなみならぬことを知らしむるものであろう。そのようなことから、師常は戦後、特にその功を賞せられ、下総国相馬郡、猿島郡、結城郡及び豊田郡の一部を賜っている。
 また、文治元年(一一八五)十月十八日、南御堂勝長壽院供養の際の行列には、(一)の御馬千葉介常胤の乗るのに続いて、(九)の御馬千葉次郎師常とある。
 文治五年(一一八九)、師常は頼朝の奥州藤原氏討伐軍にも加わって戦功をたてた。その恩賞として、師常は奥州において行方郡を授けられた。なお、師常が率いた軍勢は、その側下の守谷地方はもちろんのことであるが、それらのことについての記録は残されていない。