それからしばらくたった元久二年(一二〇五)、畠山重忠の事件があり、千葉一族はこれに参加、そして、相馬郡から相馬五郎義胤が出て、戦功をたてた。義胤はその恩賞として、奥州行方郡の他に高城保をもらった。そのようなわけで、相馬氏は下総相馬を合せて三地域を支配することになるが、その家督は師常のあとをうけて義胤が継承し、守谷にあって、それらの地域を支配したものであろう。
なお、義胤のことについては『吾妻鏡』に「時の将軍頼経に仕え種々な行事にお供をしている」と書いてあるところを見ると、義胤は鎌倉幕府においては相当な要職にあって、親任されていたものと思われる。また、守谷の家臣等も数多く鎌倉の義胤邸に奉仕していたものであろう。