胤綱以降のこと

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 胤綱以降については、『相馬文書』『千葉大系図』等に記されているが、この系図が『島津家文書』に収められていることは、注目すべきことである。これは胤綱の三女妙智尼(みょうちに)が、嶋津下野入道(しまづしもづけにゅうどう)(久経)に嫁し、忠宗を生んでいる。このことについては、岡田清一氏の論説があるが、氏は先ず、『相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図』を引用して、およそ、次のように述べている。
 この系譜によると胤継は母相馬尼によって、勘当され、次男胤村が後を継いでいる。胤綱の長女は足助尼といって、足助氏に嫁しており、相馬御厨内横須賀村(利根町)を譲与されている。胤綱の三女妙智尼は嶋津下野入道久経に嫁す。彼女は父胤綱から、相馬御厨内の所領を譲渡されたが、その後、母相馬尼から弘安三年(一二八〇)、再び相馬御厨内の黒崎郷を譲与されている。その後、彼女はこれを子息、忠宗に譲っており、忠宗は貞久に譲与した。
 それから時代がくだって、室町幕府になったときの延文元年(一三五六)には、貞久は足利義詮から、次の土地を支給されている。下総国相馬郡内符川村、発戸村、押手村、下黒崎村、甲斐御房村、古志木村がそれで、これらによってみると、相馬郡内には多くの血族関係の所領が入り組んでいることがわかる。
 なお、胤綱は二女に、相馬御厨内の、現在の取手市戸頭(とがしら)の地を与えている。

 また、『吾妻鏡』には「建長四年(一二五二)に、時の将軍宗尊の拝賀の随兵に、相馬胤綱が直垂(ひたたれ)姿で参列している」と記されている。

相馬御厨内相馬一族の所領