胤村

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 胤綱の後は、長子胤継が継がないで、次男の胤村が相続した。前記の系譜を見ると胤継は、母の相馬尼から勘当されていると記してあるが、どのような理由によって勘当されたのか判明しない。『吾妻鏡』によって見ると「胤継は胤村と共に康元元年(一二五六)放生会参宮の人数の中に加わっており、また、同年将軍宗尊が最明寺参内の行列の御車に供奉している」と述べてあるから、その頃あたりまでは活躍していたものであろう。
 胤村は仁治年間から文永年間(一二六四~一二七四)頃の人ではなかろうか。胤村もまた守谷城を拠点として、下総、陸奥両国を統治するのに、一族の領地の配分に苦心したようである。とにかく守谷の地は、鎌倉と陸奥国を結ぶ要点として繁栄したものと想像される。