師胤・重胤

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 胤村の後継として、相馬家の嫡子にたてられたのは、長子胤氏ではなく、五男の師胤であった。そして、正応二年(一二八九)には、師胤の子重胤が後を継いだ。彼は下総と奥州にまたがる土地を受け継いだが、土地の分配のことで、内外共に多事多難であったようである。註(3)
 彼の居住地については、『相馬文書』の元亨元年(一三二一)、相馬重胤申状のところに「重胤は下総国相馬郡をもって居住」とあるから、彼の本居は相馬の地で、奥州の領地については、代人を派遣していたようである。その相馬の地というのは、守谷本城が本拠であったものとみるべきであろう。ところが、その後、彼は所領のことで争いを生じたが、その直接の原因は、長崎思元が彼の所領の行方郡高村田在家の三分の一を押領したことにあったようである。彼はそのことで、奥州の所領に下向し、奥州小高に居住して、相馬の地には再び帰って来なかったのである。註(4)

師胤系相馬氏奥州,下総国所領略図
(中世相馬氏の基礎的研究より)