鎌倉街道

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 鎌倉時代になると、いわゆる、鎌倉街道が開通し、「いざ鎌倉」といった軍事道路が造られた。それは、関東の御家人が直ちに鎌倉に集合するために造られた道路でもあり、また、地頭が貢納運上などで鎌倉に往復する道を鎌倉街道といった。この路線は、岩井あたりから来ると、守谷を通って常陸川を渡り、布佐、我孫子を経て、下総国府を通過して鎌倉に行ったもので、この道が公用道路であった。
 また、銚子街道なるものもあった。それは、現在の下館市、下妻市、水海道市、守谷町、取手市、利根町の布川を経て、布佐より印西町を通り、現在の利根川沿いに銚子に行き、海路鎌倉に行く路線もあったようである。鎌倉街道の遺跡は、相馬郡の布佐や、筑波郡真瀬(ませ)街道に残されている。
 なお、『相馬日記』には「ごうしう街道」と表現した街道があるが、この街道は、現在の守谷町郷州原を通り、取手市上高井を経て、藤代町山王方面に通ずる道路ではないかと述べてある。この道は鎌倉時代相馬氏が、各支城に連絡する連絡道ではないかといわれている。註(5)この道が藤代方面まで続いていたとなると、小貝川の下流から、水上交通にも連絡された道ではないかと想像される。

郷州街道(藤代方面に通ずる)

  註(1) 吾妻鏡参照のこと
   (2) 中世相馬の基礎的研究 岡田清一著
   (3) 相馬文書 関東下知状
   (4) 相馬文書 相馬重胤申状案
   (5) 郷州原遺跡調査報告書 守谷町郷州原発掘調査会