建武新政と相馬重胤

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 元弘三年(正慶二年・一三三三)、新田義貞は護良親王の令旨を奉じ、鎌倉を攻めるべく本拠上野、常総の兵を率いて古河の鶴ケ峯八幡宮に戦勝を祈願し、幕府軍を武州分倍川原(ぶしゅうぶばいがわら)、小手指等に破り、進んで鎌倉を陥れた。かくして後醍醐天皇による建武新政は、開始されたのである。
 相馬氏の惣領にあたる相馬重胤は、下総・奥州にまたがる領地をもっていたのであるが、後醍醐天皇の建武新政の方針を謹んで受けたので、下総の領地は、天皇の綸旨(りんじ)によって安堵された。奥州の相馬領も、重胤の代理としてその子親胤が、多賀国府より安堵の通知を受けている。その頃、惣領重胤は守谷の地に居住していたものであろう。
 しかしながら、後醍醐天皇によって始められた建武新政は、先に述べたように、わずか三年にして行き詰まってしまった。その直接原因は、所領問題、恩賞問題等であったが、それに参加した人々の中には、次第に新政に対して不満がつのっていった。その動向をみていた尊氏は、それらの不満をもつ人々を巧みに利用して、その人々を味方につけて、新政府に反旗をひるがえした。彼は、鎌倉を占領して新田義貞を追い、翌年には京都にのぼり、光明天皇を擁立して征夷大将軍を称し幕府を開いた。そのため、後醍醐天皇は比叡山の延暦寺に逃れたのである。この時、重胤は奥州の領地にいたが、彼は直ちに足利尊氏の麾下に参じている。このような事情を知る前に、相馬家の内状について触れてみたい。