鎌倉時代の初め頃、相馬氏は守谷を拠点として下総地方一帯にその勢力をもっていた。源頼朝の挙兵にあたり、相馬常胤、師常父子は、誠意をもって頼朝に仕え、軍功をあげたので、相馬氏は鎌倉幕府の重臣として頼朝の親任が厚く、下総相馬郡のほかに、奥州行方郡の地を授けられ、その後、義胤の代には奥州高城保も賜り、相馬氏はこれより三地域を支配するようになった。ところが、領地がこのように膨大になったり、また、遠隔地にあることなどから、その分配、領治について、複雑な問題が山積したようで、一族間の争いが絶えなかった。
その一例として、こういう問題もあった。重胤の前は、師胤が惣領の地位にあった。師胤の前の惣領は胤村であったが、胤村には子供が九人もあって、師胤はその五男にあたっていた。惣領相続については、長男の胤氏がこれを受けるのが常道であるが、胤村は胤氏には譲らず、五男の師胤に相続させた。これらの事情についてはよくはわからないがとにかく、師胤と胤氏との争いはこの頃から始まったものと想像される。その後、総領は嫡子の重胤に譲られたが、この問題は重胤の代になってもいよいよ深刻になるばかりであった。このようなことも、重胤奥州移住の一原因になったものであろう。有胤の子等や、胤氏の子等は、下総相馬の地にあって、その後、南朝方について奥州相馬領に侵入したこともあったが、そのことについては後記したい。