奥州の相馬は北朝方

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 このような時に南北朝の動乱を迎えたのであった。重胤は最初、後醍醐天皇の建武新政に協力した。足利尊氏が反旗をひるがえして京都に幕府を開設すると、彼は奥州にあって足利尊氏についたが、その方針は最後まで曲げなかった。どのようないきさつで重胤が尊氏方についたものか、その事情について、はっきりした解答はつけにくいが、同族間の紛争も、その原因の一つにあげられよう。
 建武二年(一三三五)、重胤は嫡子親胤及び、次子光胤に、所領を譲り与えているが、これを、岡田精一氏の所論によってみると、左表のとおりである。(註1)
下総国陸奥国
親胤増尾小高、高、目々沢、堤谷、浜、
小山田、関沢、盤崎(胤門後家分)
光胤薩間耳谷、村上浜、田在家、
粟野鳩原(胤門後家分)

 陸奥の所領については、一応理解されるが、下総国の増尾、薩間、粟野以外の所領については、述べてないのである。ということは、下総領に関しては、総領家としては、すでに手の届かない状況になりつつあったことを、示すものではなかろうか。
 延文三年(正平十三年・一三五八)、親胤は嫡子胤頼に、その所領を分割している。それによると、下総国相馬郡内の所領の記載が、まったくないのである。そうすると、胤頼以後になると、惣領制的体制が崩れていって、実質的には相馬郡に対する支配も喪失していったものとみて差し支えなかろう。相馬郡は惣領制から離れ、守谷を中心として下総相馬に居住する一族がそれぞれ郡内を所有し、南朝方について、各所に戦を展開しているようであるが、それについては別記したい。