重胤自害

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 ひるがえって、正慶三年(延元元年・一三三六)重胤は、今後の内戦が激化することなどから、次子光胤に堅固な城郭を築かせ、たとえ足利氏が劣勢であろうとも、足利氏と行動を共にすべきことを固く言い聞かせて鎌倉におもむいている。同年足利尊氏は、北畠顕家(きたばたけあきいえ)によって京都を追われ、九州方面に走った。顕家は義良親王を奉じて奥州に下向の途中、鎌倉にあった重胤らと片瀬川に対戦し、重胤は破れて自害した。(註2)重胤の嫡子親胤は、足利尊氏に従軍していたが、弟の光胤は奥州にあって、南朝方と戦を繰り返した。