北畠親房小田城による

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 九州地方にのがれた尊氏は、その勢力を盛り返して再び上洛して京都を占領したので、建武新政府はわずか三年で崩壊し、天皇は再び比叡山に向かわれた。尊氏上洛の途中、楠木正成は尊氏を湊川に迎え、戦死した。北畠親房は、顕家の弟にあたる顕信と、奥州に下向する途中、海難に逢い、常陸国に漂着し、阿波崎城により、その後小田城に遷った。『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』が書かれたのは小田城である。守谷城の相馬氏は、一族と共に支援したが、戦い利あらず小田城は陥落し、最後の砦大宝城も遂いに陥ちた。南朝軍は破れて親房は吉野に還った。一方、顕信は奥州へ下向して、北朝方の相馬氏などと戦っている。

小田城(筑波町)