また、守谷城主相馬四郎左衛門尉忠重も、終始南朝方であることが、『太平記』に述べられている。それによると、忠重は延元元年(一三三六)後醍醐天皇が尊氏に追われて比叡山に避難したとき、千葉貞胤と共に従軍し、攻めて来た足利軍を防ぎ、剛弓を引いて敵を倒している。忠重の戦の様子を『太平記』によってみると、
相馬四郎左衛門忠重は五人張の剛弓を満月の如くひきしぼり、弦音高く切って放す。その矢が相手の胄にあたり眉間を貫いて脳を砕き、あっと言う声と共に矢庭に二人死んでしまった。そのあとにつづいていた者たちも、この鋭い矢筋を見て前に進まず、また後へ引くこともできず、皆背をかがめてぢっとしていたということである。その後からつづいた二十万の寄手も早々に本陣へ引き返してしまった。
と述べてある。
大宝城の本郭跡(下妻市)
その後、興国元年(暦応三年・一三四〇)、北畠親房のこもる小田城の援護のため、同年五月、北畠顕国が相馬郡に来ると、忠重は新城を築いて顕国を迎えている。そのことは、第四節において述べたい。(註4)
興国元年(一三四〇)高師冬によって、駒城(千代川村)は落城したが、南朝方はその翌日これを奪還している。更に、飯沼城も相馬忠重の協力によって陥している。
室町幕府というのは、連合政権のような性格のものであったから、その均衡が破れると、すぐに紛争がおこった。この頃しきりに尊氏と弟の直義との間での対立が表面化し、直義は南朝方について尊氏を攻撃したので、一時南朝方は勢力を盛り返したことがあった。そのことは、直ちに奥州に波及していった。たまたま、北畠顕信は、守永親王を奉じて出羽にあったが、それによって一時国府多賀城は顕信に奪還された。観応元年(正平五年・一三五〇)及びその翌年、顕信は奥州の相馬親胤に対して、本領安堵を条件に、南朝方への参加を要請した。しかしながら、北朝方もそれに対抗して本領安堵を行って、北朝方にもどらせようとした。親胤は一貫して北朝方にとどまったのである。
このような状態は、約五十年間も続いたのであるが、結局、三代将軍足利義満の南北合一政策によって、一応の終止符をうったのである。