高野城平面図によると、この舌状台地は(A)、(B)、(C)の三区に区切ってあったのではないかと推定されるのであるが、現在は(ハ)のところに、高さ三メートル程の土塁が、六〇~七〇メートル程の長さで残っている。当時はその土塁の下に堀が造られていたものであろうが、現在ではすっかり埋没している。
(C)区は、面積およそ四〇〇〇坪もあろうかと思われるが、大変まとまりのよい地区で、周囲はかなり急傾斜の崖をめぐらして、要害の地を占めており、ここが本郭とみられる。
そして、(B)地区が二の郭に当るところではないかと思われる。(ロ)の部分と点線の箇所が、空堀になっていたものであろうが、現在はすっかり埋めつくされて、その面影もない。城の周囲は、その当時は沼沢地で、水運も開け舟の往来があったらしい。
(A)地区も城の区域になっていたのかも知れない。まだここは未調査のところである。
高野城平面図(高野城調査報告書より)