守谷には守谷城があり、それをとりまいて、室町時代に築城された高井城、筒戸城などの相馬五城がある。高野城は相馬五城の中には含まれていないが、高野城の所在地を今城と言っており、これは明らかに新城という意味であるから、相馬五城に対して、それより新しく構築されたということから、つけられたものではなかろうか。もしそうだとしたら、相馬氏の最も繁栄した、戦国時代初期の頃にあたるものと、推定されるのである。
しかしながら、現地でこの城の実地調査をしてみると、その構築様式が極めて単純・素朴という感じがして、戦国様式のものとは認められないのである。戦国時代になると城の構築技法が進歩し、たとえ出城にしても、それには入念な手工が施されている。
これについて、伊礼正雄氏は『高野城調査報告書』の中で「高野城は戦国期に増改築された守谷城とか、相馬氏の出城等と比較して、その構築様式が簡単で、それより古い感じは否定できない。そしてこの城は、一定領主の生活のための城であるよりは、戦時用の城砦と見た方がよいようである。」と述べている。
そして、伊礼氏は今井隆助氏の所論をあげて、それにほぼ同意している。それによれば、相馬氏が北畠顕国(あきくに)のために新城を築いたということがあるので、高野城はその意味の新城ではないかというのである。
守谷の相馬氏が、その一族をあげて南朝方に味方したことについては、すでに第四節に述べたとおりである。とにかく、興国元年(暦応三年・一三四〇)北畠顕国は、相馬忠重の要請と援助とによって、郡内外の要所に新城を築いて錦旗を揚げ、一族これに応じその城に拠って気勢をあげた。ときに南朝方の勢力は大いにあがり、駒城(こまじょう)(下妻市黒駒)を包囲した北朝軍の気勢をくじいたのである。その時に築いた新城のひとつが、高野城に当たるものではなかろうか。
この城の築城様式は、北畠親房の拠った小田城とは比較できない。というのは、小田城は鎌倉時代から戦国時代にかけて、数回の増改築がなされたからである。しかし、北畠親房が最初に拠った阿波崎城、神宮寺城、そして、最後に拠った大宝城、関城などとは、その構造様式が類似している。それ等はすべて自然の地形を利用し、極めて簡単な土塁を造った程度のものであった。
北畠親房の拠った大宝城は、その後間もなく陥落し、南朝方は振わず、そして、北畠顕国も遂に守谷の地を去った。北畠顕国等の南朝方の拠った高野城も、わずか一、二年にして廃城となり、その後、相馬氏は戦国時代になっても、それを出城として使用しなかったものであろう。
高野城(今城ともいう)