たしかに高野城は、南北朝時代に相馬氏によって築造され、それは南朝方の拠点として使用されたものであろう。たとえその築城様式は小さく、単純・素朴であったとしても、この城は守谷の歴史にとって貴重な遺跡である。この城は南北朝の変動期に、わが国の歴史の流れを変えるのに、大きな役割を演じた城である。そして、その城に拠った守谷の先祖たちも、そのために活躍した人々であったのである。(註5)
註(1) 中世相馬氏の基礎的研究 岡田清一著
(2) 相馬文書 相馬胤頼着到状
(3) 相馬文書 相馬胤平軍忠状
(4) 第四節高野城参照のこと
(5) 第四節高野城は、本稿を書く前に伊礼正雄氏による「高野城調査報告書」が刊行されていたので、ここでも高野城という名称を用いた。なお、第四節もその「調査報告書」を参考にした。高野城は本町史編さんの最中に、宅地造成のため、すっかりその面影を失ってしまった。