応永年間(一三九四~一四二七)になると、鎌倉公方足利持氏と、その執事氏憲との間に争乱がおこった。そもそも、上杉氏は関東公方の補佐という役目をもつ職であったが、関東各地に領地をもっており、近くでは信太荘(しだのそう)(今の稲敷郡)や、下幸島荘(岩井付近)を領有し、その勢力は次第に強くなっていった。
応永十六年(一四〇九)、足利満兼はその子持氏に公方職を譲ると、上杉氏憲はこれを喜ばず、持氏の叔父足利満隆が、公方職を望む野心のあることを知って、これを扇動して相反し、応永二十三年(一四一六)、持氏を追い出してしまった。
この乱に守谷城主、相馬胤長は千葉胤直父子と共に、上杉方について持氏に反抗している。ところが、持氏は駿河の今川氏の援助をうけて勢力を回復し、進攻して氏憲を殺し、鎌倉に帰還した。これを世に応永の乱という。
ところが、持氏が相馬胤長などに対する処分は実に寛大であった。これによって相馬氏は領地を削られることなく、守谷を中心とした相馬百三〇余村が、無事に領治されることになったのである。なお、これについては後述するが、相馬氏はその恩義に感じて、その後、持氏の子孫を援けて、守谷城を提供しようとまでしたのである。結城氏もまた、この乱には上杉方についていたが、これも寛大な処置をとってもらったので、後になって、持氏の子を擁して結城合戦を演ずることになるのである。