永享の乱と結城合戦

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 鎌倉の公方持氏は、将軍義教(よしのり)と争ったが、永享十年(一四三八)、義教は兵を派遣して持氏を攻め、持氏を自害に追いこんだのである。その翌年になって、持氏の遺児、安王丸が挙兵した。結城氏朝はその遺児を結城城に迎えて上杉清方等の軍と戦ったが、嘉吉元年(一四四一)に結城城は陥ち、二人の遺児は殺された。これを結城合戦といっているが、この戦に、守谷城主相馬胤長は、千葉胤直の軍と共に結城城を攻めている。
 持氏の三男永寿王丸は、その後鎌倉で公方となって名を成氏と改めた。ここにおいて、成氏の父持氏及び、二人の兄を死に至らしめた上杉憲実は、不安を感じて亡命した。成氏も憲実に心よく思っていなかったので、上杉氏との争乱が再び起きることになった。この争乱によって成氏は、憲実を討つことができたが、将軍義政は、上杉一族の訴により、今川範忠をして成氏を討たせたので、成氏は鎌倉を捨てて、古河(現在の古河市)によった。これを古河公方と称するようになるが、時に康正二年(一四五六)であった。この事件で相馬氏は、どのような立場に立ったかははっきりしないが、多分古河公方側にあったのではないかと想像される。

古河公方系図

 それから三年を経過した長禄三年(一四五九)四月には、守谷城主は相馬彈正胤広であった。胤広は現在水海道市にある由緒ある一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)の社殿を改造しており、現在建造されている社殿は、胤広の再建であることが社記に残されている。(註1)これを証明するものに、その本殿に相馬家の家紋の一つ、相馬撃駒の彫刻のあることが、拝殿改造のとき発見され、また、社門としている九曜の星も相馬家のものと一致しているのである。
 相馬胤広が、一言主神社を修築した明くる年の寛正元年(一四六〇)には、下妻の多賀谷氏は、結城氏のもとから下妻に移住してきている。この多賀谷氏がやがて相馬氏に対して脅威をもたらすのであるが、この勢力はまだ水海道一円には及ばず、相馬氏の勢力がのびていたようである。

一言主神社(水海道市)