関東の野は、応仁の乱を待たずして戦火が広がっていった。たまたま、伊豆に起った伊勢長氏は、小田原城を略して北條氏を称し、初代早雲、氏綱、そして氏康に引き継がれ、永正・大永年間から天文年間にわたり、相模(さがみ)を略し武蔵(むさし)を取り、古河公方を圧し、上杉氏を追い、里見氏をほうり千葉氏を従がえ、遂に関八州の大半をその手中に治めるに至った。
常陸の北方には佐竹氏があり、太田から出て水戸城により、西は下野の東部、北は陸奥にわたる広大な勢力をもって北條氏に対抗した。
時に守谷城主は相馬小治郎胤高であったが、胤高は天文十八年(一五四九)の春、千葉介重胤と共によしみを小田原の北條氏康に通じ、その麾下につくことになった。