古河公方晴氏

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 古河公方成氏は、明応六年(一四九七)に死亡し、政氏が後を継いだ。政氏の代になると、一族の間に内紛が生じたが、その内紛は新興勢力、北條氏のつけこむところとなった。
 その後、古河公方は政氏から高基(たかもと)に引き継がれ、そして、晴氏の代になった。天文十二年(一五四三)になると、晴氏と北條氏とが衝突することになってしまった。その衝突の原因は、上杉憲政が北條一族の城を包囲したことについて、憲政は晴氏に協力を求め、晴氏はそれに応じたからである。
 この戦いは北條氏の勝利に帰した。上杉憲政はこれを期として、越後の長尾景虎(ながおかげとら)に、上杉の姓と関東管領家を譲った。長尾景虎はこれより名を上杉謙信と称して、北條氏に対抗して、常総の地において、雌雄を決することになるのである。
 天文二十二年(一五五三)になると、上杉謙信は平井城(藤岡市)に軍を進めてきた。これに対して、千葉介利胤や、守谷の相馬治胤も出陣しているが、これを北條氏の資料によってみると、
   千葉利胤、熊谷出陣に対して、世喜宿(関宿)の簗田政信、守谷の相馬治胤の命で、河口播磨守、布川の豊島三河守も出兵、結城の陣代岩上左京亮、幸手の一色眞爲等は、古河御所晴氏の催促もあって、出兵したが、この戦には敗北した。関宿や守谷の殿等も、こうなっては、古河のお城も心もとなくなってきた。これを警固するほかはないといって、早々にくにもとに戻ったということである
 と述べてある。古河公方は晴氏のときに至って、その勢力とみに衰え、一時は上杉と結び北條氏に抗したこともあった。天文二十三年(一五五四)、北條氏康は晴氏の古河城を囲み、一色氏等の防戦も空しく、晴氏とその子藤氏・義氏は相模の波多野に幽せられ、さびしい日を送ったという。
 その間、晴氏は小山高朝や守谷城主相馬左近太夫治胤と謀り、古河復興を計画したこともあったが、成功はしなかった。
 北條勢力は、氏康の子氏政の代になると、古河公方を存置して、上杉・多賀谷・佐竹の勢力に対抗することを考えていた。