永禄三年(一五六〇)十二月、北條氏康は、その子氏政に譲り隠居した。その翌年、氏政は晴氏の庶子、義氏をたてて古河公方となした。永禄四年晴氏は鎌倉において没した。
ここに、北條氏の庇護のもとに、新たに公方となった義氏は、一時は関宿に移って、簗田氏を頼ったが、思うようにはいかず、小田原に行ったりして、各所を歩き回った。やがて成氏以来の居城であった古河は、新たに東国にその勢力をのばしてきた、上杉景虎(謙信)の勢力に下っていったのである。
永禄九年(一五六六)八月、守谷城主相馬治胤は、その居城守谷城の提供を申し出たので、北條氏政は大いに喜び、近臣を派遣して城の検分をなし、先ず義氏の侍臣を移したのであるが、公方の居住ということは、実現するには至らなかった。