右のことについて、今井隆助氏は、守谷城に居住していた治胤の客分で、晴氏の室にあたる芳春院(註2)という人から、行方の芹沢氏宛に出された書状を紹介しているが、そのあらましについて述べてみると(註3)
相馬氏が守谷を公方の御座所として進上されたから、小田原の北條方が喜ばれ、その検分までされたことで、私自身も大変にうれしく思って一生懸命に奉公している。ほんとに、公私共に御奉公しているので御満足下さい。
という文面であった。よほどうれしかったとみえて、その状況が書面にあふれている。
相馬治胤が、古河公方に守谷城を提供したいという考えは、先述したように、古河公方持氏の恩義に報いるためであったものと思われるが、一方、守谷の相馬氏も北條氏の輩下として、重要な位置にあったものといえよう。北條氏の側からみると、古河公方を利用し、守谷を拠点として、佐竹・多賀谷の両氏に対抗し、北條勢力の進展を考えていたことであったから、右の書状にあるとおり、治胤の処置に喜んでいたことは、容易に想像されることである。