このことに関して、次のような話もあった。関宿の城主簗田晴助は、北條氏政に、
「関宿城というのは、もともと古河の出城としての役目をもっていたもので、この出城が守谷城にうつるとなれば、古河の代償として、守谷城を領有したい」
と申し出た。しかし、このことについては、氏政は全く同意しなかったということである。まさに骨肉相はむ戦国の一挿話である。
義氏の守谷城移転は、実現しないままに、やがて天正十年(一五八二)も暮れの頃、義氏は没した。かくして古河公方は百二十八年目にして滅亡したわけである。
関宿の簗田氏の態度