天正初期の相馬氏

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 ここに天正年間の動勢のあらましを、守谷の相馬氏を中心として述べてみたい。
 天正元年(一五七三)、関宿の簗田氏と佐竹義重が合体して、相馬氏の勢力範囲である猿島方面に出てきた。そこで、守谷の出城である高井城主相馬民部は、猿島に兵を出してそれを敗走させている。これを賞して北條氏直から、守谷城主相馬左近太夫に寄せられた書状によると(註4)
  今度佐竹向其表、相勤處、防戦堅固、故早速敵退心地好肝要至極候。為其以使申候。仍刀一包永并三種荷進之候。委細可在口上候。処々謹言
    九月二十三日
    (天正二年)
         氏直(花押)
   相馬左近太夫殿
 となっているが、このあらましは、「この度、佐竹氏が猿島の方へ進出して来たことについては、堅固な防衛陣をひかれ、そのおかげで、早速敵は退却し心地がよく、大変にうれしいことと思っています。先ずは使のものを差し向けて、刀一振、永楽銭一包それに酒肴等をそえて、おとどけいたします。」という意味の文面であろうか。

元亀―天正初期の勢力圏


北條氏直書状(中世相馬氏の基礎的研究より)

 また、この頃になると、多賀谷政経も猿島付近の相馬氏の前衛基地をうかがって、盛んに攻撃を加えている。多賀谷は伏木(境町)にある、星智寺を焼き払って、鐘を奪って大宝八幡に奉納している。(註5)多賀谷勢の猿島焼き討ちは徹底していたが、その意図するところは、北條氏に傾むいている猿島地方の長村、社寺を焼き払って、敵の戦力を削減するにあった。天正元年には伏木で百姓家が残らず焼き払われ、境の若林村、岩井の長須村の阿弥陀寺、百姓家が残らず焼き払われている。(註6)
 天正二年(一五七四)になって、北條氏政が関宿攻めを行ったとき、上杉謙信も関宿の後詰として出陣する気配があったので、その軍が猿島口に打って出るのではないかと判断し、氏政は守谷の相馬氏に次の書状を送り、防備を怠らぬよう要請している。その書状をみると、(註7)
  越衆(上杉謙信の軍勢)、幸島口へ可打下由聞候。然者当許之備無異議候。手遠に候共其口(幸島口)之儀堅固之防肝要に候(下略)
   閏十一月十二日
  (天正二年)
                                              氏政(花押)
  相馬左近大夫殿
 とあるが、これは、「越後の上杉謙信が軍勢を引き連れて、猿島口に討って出る様子だから、猿島の防備をなお一層堅固なものにされるように」という意味であろう。しかしながら、謙信が到着しない前に、関宿城は北條方に明け渡されている。

北條氏政書状(中世相馬氏の基礎的研究より)

 とにかく、天正初期の下総の状勢は、古河公方が衰微し、北條配下にある相馬氏に対して、佐竹及びその輩下にある多賀谷氏の積極的な攻撃と、それに加えて、上杉謙信も相馬に圧力をかけていたのである。守谷を本城とする相馬氏は、これに対して一族をその出城に配置して、万全の防塁を固めていた。この状況を、『相馬一家連盟帳』によってみてみると、(註8)
  相馬左近大夫治胤
  高井小次郎胤永
  筒戸小三郎胤房
  菅生越前守胤貞
  筒戸小四郎胤文
  岩堀主馬頭弘助
  大木駿河守胤清
 とあるが、守谷本城には相馬治胤がおり、それをめぐって、高井城には胤永、筒戸城には胤房、菅生城には胤貞等というように、すべて相馬一族によって配置されたことが理解されるのである。これには、佐竹氏も多賀谷氏も、その堅塁を抜くことができず、守谷城では最後まで戦闘はなかったのであった。

菅生城跡の略図(図説水海道史より)