大生郷天神の戦

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 つづいて、天正四年十月になると、多賀谷は再び相馬勢に向かって攻撃を始めた。そして、水海道市の大生(おお)にある天神の別当寺安楽寺に駐屯した。北條氏堯も軍を引き連れて守谷の相馬胤房の軍を合わせて三〇〇〇人、これ等は大生の天神山に陣をとった。その状況を『東国闘戦見聞私記』によると、
  北條氏堯は鉄砲で応戦し、攻防三十日、兵糧が尽きたので、それを弓田に求めるために、舟一〇艘に二百人が乗船して行ったが、その帰途多賀谷軍が待ちうけ、その糧を奪ってしまった。氏堯は天神より神田山に引き上げようとしたが、大風が起こり舟の沈むものもあった。そのうち天神山に火の手が上がり、社殿はことごとく焼かれ、脱出のとき戦死者が多かった。
と述べてある。この戦いの状況を、多賀谷方で書かれた、『多賀谷記』によると、
 北條氏堯は、弓田に城を構え、糧を運び、飯沼天神を焼き払い、舟で弓田より兵糧を運ばせて、下妻勢を待った。氏堯は防戦のため、飯沼の弘経寺(ぐぎょうじ)と、報恩寺を焼いた。政経岡田に出陣し、北條軍を花島に迎えて戦った。また、一方から多賀谷軍は弓田を攻め進んで水海道の方から北條軍を包囲した
と述べてある。両方の手記については、いささか食い違いがあるようだが、とにかく、この戦も多賀谷軍の勝利に帰したものと推察される。

安楽寺(水海道市)


大生郷天満宮(水海道市)